辛い過去があったからこそ今がある。無国籍だったアンテトクンポが自由を手にした瞬間

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Giannis Antetokounmpo(ヤニス アンテトクンポ /ギリシャ語発音: ヤニス アデトクンボ)

1994年12月6日生まれのギリシャ国アテネ出身、身長211㎝、体重100kg、ウィングスパン221㎝、ポジションはPGのミルウォーキーバックスを代表する選手です。

彼の特徴は何と言っても、恵まれた長身とずば抜けたバネと長い手足で自由自在にゲームメイクをしていくところ。彼のポテンシャルはNBAでもトップクラスと言っていいほど。プレイ的にも身体的にもまだまだ伸び代のある選手で今後も活躍が期待されています。

元サンダーでウェストブルックと2トップを担い、現在は今年の優勝候補のウォーリアーズでカリーやトンプソンとチームを引っ張っていっているケビン デュラントですら、一目置くほど。

デュラントは、アンテトクンポに対してこのようにコメントをしています。

迫力があるよね。彼のような選手は見たことがない。彼の天井には終わりがない。彼が本当に望むなら最高のプレイヤーになるだろう。それが本当に怖いよ。

あのデュラントにここまで言わせるって、かなり将来有望な選手だということがわかりますね。

そんなアンテトクンポですが、実は幼少期はかなり苦労をした過去を持っています。

彼の両親は生活のため、ナイジュリアからギリシャへ不法移民として移り住み、その後アンテトクンポが生まれました。不法移民にまともな職もなく、生活のため彼も路上でアクセサリーを売るなど物心ついたころから働いていました。毎日ぎりぎりの生活で、食べ物を買うお金もない時もあり、家賃も払えずアパートも追い出されたこともあったそうです。

そんな中、元プロサッカー選手の父と元高跳び選手の母のアスリートの血を受け継いでだ兄弟は、身長と身体能力の高さを見込まれて、小さなジュニアチームでバスケットを始めることになります。バッシュは兄弟で貸し借りし合いながら履いていたそうです。

兄弟にとってはバスケをしている時が全てを忘れられる時間でしたが、時にはその大好きな練習に参加することもできませんでした。休めばメンバーから外される可能性があるものの、路上で物を売ってお金を得ることができなければ、その日の食べるものがないというのが彼らの現実でした。

それから成長に伴い、兄弟を巡る状況は悪化の一途をたどることになります。2000年、ギリシャはこれまでにない経済危機を迎えていました。財政破綻のすれすれまできており、国民の24歳以下の3分の2近くが失業したと報じられたことで、国民から「不法移民が仕事を奪っている、彼らを追い出せ」との声も高まり、移民に対する風当たりが強くなりデモが多発する事態に。当時の日本でも連日このニュースで持ち切りで、かなり深刻な状況でした。

しかし、アンテト兄弟ははまだ恵まれていた方で、近くのカフェのオーナーは毎朝ご飯を食べに来るように促し、別の人は古着などを彼らに与えました。所属していたバスケチームのコーチらは、アンテトの母親の仕事探しに走り回ったそうで、街の人たちがアンテトクンポのバスケットの才能を支えたそうです。

彼は多くの人たちの協力によって、若干17歳で国内2部リーグのチームと契約し、順調にバスケット選手として頭角を現します。ゆくゆくは1部リーグ、国の代表に…と人々はアンテトのバスケキャリアに期待をかけましたが、そんな中忘れていたある問題が浮き彫りとなったのです。アデトクンボは不法移民の子。ナイジェリアにも、ギリシャに戸籍がありませんでした。パスポートもない、海外へも行けない、NBAどころではないという状況でした。

冒頭でも話した通り、彼はギリシャで生まれで不通にギリシャの学校へ行き、普通にギリシャ語も堪能で、市民権を得るための資格は十分でしたが、当時のギリシャはこれまでにない経済難で、負担が軽くない不法移民のに頭を悩ませており、何千人という彼らによる市民権の申請に伴う審査は、事実上凍結されていました。そうなると、アンテト本人やその家族、支援者らの手に負える問題ではありません。

ただ待つしかない状況で申請をしてから2年近い月日が流れたころ、アンテトは遂にプロバスケ選手としてスペインのチームと契約をしました。プロリーグでプレイをすることで、NBAのスカウトマンがアンテトの試合を目にするように。「ドラフトされるかもしれない。」人々の期待はさらに高まります。しかし一方で一向に審査が進まない…。ギリシャのバスケ協会が働きかけても埒が明きませんでしたが、ギリシャのスポーツ界に力を持つ体育担当副大臣が動いて、ようやくアンテトに市民権がおりました。問題が解決したのは、NBAドラフトのわずか1か月前のこと。

アンテトクンポがNBAドラフトで指名されると、ギリシャ国民は熱狂!当時の首相が、「君は、ギリシャ国民の誇りだ」と祝福しましたが、こうしてスポットライトが当たってしまったことで、アンテトは移民排斥を主張する「黄金の夜明け」という政党とその支持者の標的となってしまう。アンテトクンポは彼らに囲まれ脅しを受けたこともあったそうだ。そうした事件もあって、彼はバックスとの契約が決まるとすぐに家族全員をアメリカに呼び寄せましたが、だからといってギリシャへの思いが変わることはありませんでした。市民権を得た後にナイジェリアかギリシャか国籍を選ぶことを迫られましたが、彼は迷わずギリシャを選んでいます。

幼少期は、自分自身の存在を証明できるものがなく、毎日の生活もままならない辛い過去でしたが、彼を支えてくれる心優しいギリシャ人がいたことは確かで、多少翻弄されることもあったがアンテトクンポはギリシャ人であることを誇りに思っていました。だからこそ、ドラフトの当日兄と一緒に9本の縞が入ったギリシャ国旗を掲げたのです。

それはついに彼が自由を手にした瞬間とも言えます。

NBA.comより引用

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